ことばのひだ“選ばなかった自分”は、ほんとうに存在しなかったのか?
選択は自分を形作るが、選ばなかった自分も存在し続ける。選択肢の背後にある無数の可能性を認識し、選ばなかった自分を大切にすることが重要である。
1. カフェで迷う、ただそれだけのことなのに
休日の午後、ひとりで入ったカフェ。 チーズケーキか、ガトーショコラか。 ただそれだけのことで、わたしは3分近くメニューとにらめっこしていた。
「チーズケーキで」 と、ようやく言ったあとも、どこかでまだ迷っていた。 ガトーショコラを選ばなかった“わたし”が、すぐ隣にいるような気がして。
2. 「選ばなかった自分」は、どこへいく?
何かを選ぶということは、同時に、何かを選ばないということだ。
今日、チーズケーキを選んだわたしは、 “ガトーショコラを食べるわたし”の物語を捨てたことになる。
でも本当に、それは消えてなくなったんだろうか? その選ばれなかった“わたし”は、ただの幻影?
なんだか、それでは少し悲しい気がする。
3. サルトルは言った、「人間は選択によってつくられる」と
哲学者ジャン=ポール・サルトルはこう言った。 「人間は本質を持たず、行動によって自らをつくる」
つまり、どんな人間かは、“何を選んだか”で決まっていくということ。
でももしそうなら—— 選ばなかったすべての選択肢は、わたしにとって無関係なのだろうか?
4. わたしは“選ばなかった自分”を知っている
こんな経験はないだろうか?
あのとき、あの道を曲がっていたら。 あの言葉を飲み込まずに、伝えていたら。
心の中に、いくつもの“もうひとつのわたし”が息づいている。 そしてそれらは、意外なほどリアルに感じられる。
それは、記憶でも幻想でもなく、“選ばなかったけど知っている自分”。
5. ハイデガー的に言えば、それは「可能性としての存在」かもしれない
哲学者マルティン・ハイデガーは、人間を「可能性の存在」と呼んだ。
私たちは、ただ今ここにあるだけでなく、 無数の「〜かもしれない」という可能性を抱えている。
選ばなかった自分は、その可能性のひとつ。 消えてなくなるのではなく、 静かに、でも確かに、わたしという全体の一部をかたちづくっている。
6. チーズケーキを食べながら、隣にいる“もうひとりのわたし”を思う
口に運んだチーズケーキは、しっとりと甘くて、おいしかった。 でもその一方で、選ばれなかったガトーショコラのことも、ちゃんと覚えている。
そしてその“ガトーショコラを食べていたわたし”は、 わたしがわたしを知る上で、きっと欠かせない存在なのだ。
選ばなかったわたし。 でも、たしかに感じたわたし。
その存在を否定せず、やさしく隣に置いておきたい。
7. おわりに:選ぶたびに、わたしは“無数のわたし”と生きている
選択とは、自分を切り取っていくことかもしれない。 でも、切り取られた欠片は、どこかに静かに残り続ける。
だからわたしたちは、 「今のわたし」だけではない「無数のわたし」と、いつも一緒にいるのかもしれない。